小さい頃、社会科見学で行ったチブサン古墳。遺跡まで行った経路とかは全然覚えてないんですけど、遺跡の装飾文様が衝撃的で、最近でも鮮明に思い出すほどでした。
ふと思い立って検索してみると、行けない距離ではないことが分かり、久し振りにチブサン古墳に行ってみることにしました。
チブサン古墳
肥後古代の森
「肥後古代の森」は菊池川流域の中で古代の遺跡が数多くある玉名郡菊水町、鹿本町鹿央町とこの山鹿市との3地区からなっています。山鹿地区は菊池川と岩野河の合流点の北西にある鍋田、城台地の一帯、約32ヘクタールがその範囲です。地区の北側に国指定の前方後円墳で装飾古墳でもあるチブサン古墳、市指定の西福寺磨崖仏があり、その西側には県指定オブサン古墳(円墳・装飾古墳)があります。またオブサン古墳の西側には肥後古代の森整備事業に伴って新たに円方形周溝墓や数基の石棺が発見され、西福寺古墳群と呼ばれています。地区の西側には山鹿市立博物館があり。その敷地に眼鏡橋である大坪橋が移転保存されています。
地区の東南、岩野河右岸の凝灰岩壁には国指定の鍋田横穴群があり16基に装飾が確認されています。(上記説明文は現地案内より転載。)
チブサン古墳の整備
チブサン古墳は長軸をほぼ東西に向けた前方後円墳です。墳丘の周囲は古くから道路や開墾等で削られており元の形から少し変形しています。周溝の確認調査の結果等からみると、本来の全長は55メートル以上と推定されます。斜面に築かれているため、やや不整形な平面型ではありますが、周囲には周溝が巡らされています。北側のくびれ部には造出しが確認されています。埋葬施設は後円部にあり、南に入口のある複室の横穴式石室です。石室の全長は約6メートル、前室は約1.9メートル四方、後室は3.6メートル四方の正方形です。側壁は凝灰岩の割石がドーム状に積み上げられ、大きな一枚の天井石で塞がれています。このような方形の平面形で側壁がドーム上に積み上げられた石室は、熊本県を中心に分布しており、肥後型石室と呼ばれています。後室の奥壁沿いに石屋形があり、この部分に華麗な装飾文様があります。この石屋形は、熊本県、福岡県に多いものです。装飾文様は石屋形の左内壁に菱形紋と円紋、右内壁に円紋と人物、奥壁に三角紋、円紋、菱形紋、蓋の軒先の部分に三角紋、菱形紋が描かれています。顔料は赤、白、青の3色が使用されています。石屋型の奥壁右側にある同心円文を乳房に見立て、乳の神様として甘酒を供える信仰が近年まで見られました。チブササンが、転化してチブサンとなったといわれています。(上記説明文は現地案内より転載。)
出土遺物
チブサン古墳の石室は古くから開口しており、石室からの遺物は知られていません。山鹿市教育委員会による石室保存工事の事前調査で、石室の入口からくびれ部にかけて須恵器、土師器、埴輪が出土し、山鹿市立博物館に保管されています。
須恵器は甕などの破片ですが、土師器は完形に近い長頸壺が2点出土し、1点は黒漆塗り、1点は丹塗りであり、墓前での祭祀に使用されたものと考えられます。
平成4年度の周辺整備に伴う県教育委員会の発掘調査では、円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、形象埴輪が出土しました。埴輪は本来は墳丘の上などに立て並べられるものですが、周溝の中に転落した状態で出土しました。下に展示しているのはその複製品です。(上記説明文は現地案内より転載。)
石人
九州には、凝灰岩で人物、動物、器材等を造り、古墳に立て巡らしています。このような石製品を石人・石馬、あるいは石製表飾と呼んでいます。
石製品をもつ古墳は全国で28例ほどで、福岡県、佐賀県、大分県、熊本県、宮崎県に27例を数えます。九州外では鳥取県に1例があるにすぎません。そのうち、熊本県には15例ほどがあります。
チブサン古墳の石人はもとはくびれ部付近に立てられていたと伝えられますが、正確な位置は不明です。高さは1.5m、最大幅は推定で80㎝です。
ヤッコ凧形をした簡略化した表現ですが、胴には短甲(よろい)を付けた武装石人で、古墳を守るために立てられたと考えられます。現物は東京国立博物館に保管されています。(上記説明文は現地案内より転載。)
オブサン古墳古墳
オブサン古墳古墳の概要
この古墳は装飾古墳として有名なチブサン古墳(国指定史跡)の西北方向約200メートルのところにある。
オブサン(産さん)古墳の名称もチブサン古墳(乳の神様)に関連付けて命名されたものらしく、昔から安産の神様として信仰されてきた。
墳丘は、復元前は直径12メートル高さ4メートルの残丘となっていたが調査の結果、築造時は直径22メートル高さ5メートルの周囲に馬蹄形状の周溝を巡らす円墳であることがわかった。
墳丘内には南に開口する横穴式石室があり、南に延びる二本の突堤が入口部左右に取り付けられ、前庭部(儀式の場と思われる)は周溝から区分されている。
石室内の玄室には北壁に沿って石屋形が設けられていたが破損された痕跡が残るのみであった。装飾文様は玄室の左仕切り石に朱による連続三角文が、また同奥壁の中央部左寄りに小形の盾、靫が朱で描かれている。
遺物は装身具、武具類、日用雑器等が石室の内外より出土した。築造時期は、古墳時代後期と推定される。(上記説明文は現地案内より転載。)
地形と環境
この古墳はチブサン古墳とともに、岩野川右岸に横たわる標高65メートルの城大地の中央部東端にある。
城台地は、南下する岩野川右岸沿いに南北にのびる洪積台地で東は岩野川、南は菊池川が境となり、西は北の小群まで細長く入り込む迫地が境である。台地の北端には城集落がある。
この大地の東縁、南縁に 露頭をする阿蘇泥熔岩の岩壁には、北から城、月付城、鍋田のかく横穴群が断続的に連なり、古代における一大墳墓群を形成している。(上記説明文は現地案内より転載。)
墳丘の規模と特色
墳丘は城大地の上の南に傾斜する面に溝を掘り土を盛って築造したものである。
入口部を南側に設け、斜面裾部から見上げることにより墳丘を壮大に感じさせる効果を狙ったものと思われる。築造当初の墳丘の希望は直径22メートルで周囲に4メートル前後の馬蹄形状の周溝を巡らすものであった。復元前の墳丘は高さが4メートル、東西の直径が14メートル、南北が12メートルの残丘となっていたが、これは江戸時代の開墾時の削り立てよるものである。墳丘は黒褐色土帯と黄色土(粘土帯)が交互につき固められており石室の天井石近くでは水の流入を防ぐため特別の白粘土が施され石室間隙の目張りの役目を果たしている。墳丘が千数百年を経た現在まで命脈を保ち得たのもこの版築の手法に負うところが大きい。(上記説明文は現地案内より転載。)
石室の構造
石室は地元産の巨石をもって築造され、玄室奥壁から全庭部末端まで約15メートルの長さである。
玄室はやや長方形で奥壁に沿って石屋形、その手前の左右に屍床が設けられ、床には直径10センチ前後の平たい敷石がある。前室は主軸方向に短い長方形で参道部以外は玄室と同様、左右に敷石がある。
玄室と前室、前室と羨道は左・右袖石と框石のよって区分され框石には、各々閉塞石(蓋石)がある。
羨道部の外は、外に向かってラッパ状に開く前庭部となっており、その両側には腰石が積まれている。この部分は儀式の場とも考えられる。
石室全体には、南に傾斜する面に半地下式に掘り込んで設けられており、各石材の間隙は白粘土により目張りされている。
なお、玄室の石屋形および左右の屍床の仕切り石は失われていたため、整備事に復元後補したものである。(上記説明文は現地案内より転載。)
装飾文様
装飾古墳は目鑑石とともに、熊本県が全国に誇れる代表的な文化財である。現在、県下の装飾文様を持つ古墳の数は181基(昭和61年3月)となっている。
九州の装飾古墳の内・外壁や石棺に描かれる装飾文様は、円紋、三角紋、直弧紋、双脚輪状紋といった幾何学文様と靫、盾、刀子、人物、馬、舟といった当時の生活をしのばせる形象的文様に大別される。
また 装飾古墳に施された文様を手法的に見ると線刻・浮き彫りによるものと、絵画によるものとがある。
前者は熊本県に、後者は福岡県に主として分布している。そして、県境を挟む中間地帯に位置する山鹿地方の装飾古墳は両者が並立する地帯として特色づけられる。
浮き彫りによる例が鍋田横穴27号墓であり、チブサン古墳やこの古墳は、絵画による代表例である。
この古墳の装飾文様は玄室左仕切り石に、朱による連続三角文が描かれる。なお右仕切石にも同様の文様が描かれていたと推定されるが、現在は痕跡を残すのみで消失している。また奥壁中央部左寄りにも小型の盾、または靫が手で書かれている。(上記説明文は現地案内より転載。)
出土遺物
遺物は石室の内外から多数出土しているが、時代別に分類すると次のとおりである。
1.古代(古墳築造時)・・装身具(小玉、金環)・鉄製品(馬具、武具)・日曜雑品類の須恵器(壷・甕・高坏・坏・瓦泉(はそう))
2.中世初頭(追葬時)・・焼物類(白磁碗、瓦質碗、土師質土器等)・銅銭(開元通宝)・鉄釘・その他埋葬人骨等
3.近世・・・ 陶磁器片・銅銭(寛永通宝、その他)
4.近代(西南戦争時) 弾丸・砲弾片・その他
5.近・現代・・陶磁器片(宇土網田焼)・銅銭・アルミ銭等
古代の遺物は、主として羨道部(馬具・武具類)と前庭部(須恵器類)に集中して出土、また中世初頭の遺物は、前室部(白磁・瓦質碗・土師質土器等)から、近世の安産の神信仰に関連する遺物(陶磁器・銅銭等)は、玄室を中心に数多く出土した。
西南戦争における遺物は、石室外から発見されている。
主体となるべき古墳築造当時の副葬品の出土が、玄室部からほとんど見られないのは、早い時期の開口による度々の盗掘を物語るものである。(上記説明文は現地案内より転載。)
閉塞石
オブサン古墳の横にある展示物を撮影(オブサン古墳出土の遺物を実物大に模造・復元したもの。)
オブサン古墳を閉塞していた蓋石で、古墳の整備時に移したもの。
前室の閉塞石は破損していたので接合復元、西南戦争時の弾痕が認められる。(上記説明文は現地案内より転載。)
山鹿市立博物館
山鹿市立博物館は、昭和53年4月1日、県内2番目に開館した博物館です。
展示されている資料は豊富で、山鹿市を中心とした菊池川流域の考古資料のほか、歴史資料や民俗資料を展示しています。
全国に唯一の石包丁形鉄器や、30数例しかない巴形銅器など大変貴重な資料も展示しています。
博物館周辺には肥後古代の森公園として整備されていて、チブサン・オブサン古墳につながっています。そのほか江戸時代後期の民家や全国第二位の用水橋(石橋)である大坪橋が移設復元されて、文化財のあふれる空間となっています。
松永家住宅は、肥後古代の森の中にある江戸時代の民家です。 天保11年(1840年)に建築された農家の主屋で、山鹿市立博物館の屋外展示施設として昭和54年に移築されたものです。住宅は正面からは単なる直屋に見えますが、実は正面の棟の背後に三棟の建物が直角に並んで付属するEの字型の「三棟造」という形式の極めて珍しい様式の民家です。
最近、茅葺き屋根は葺き替えられたそうで、家1軒建つ位の価格なんだとか。
山鹿市立博物館ご利用案内
開館時間 9時から17時まで(入館は16時半まで)
休館日 月曜日・祝日の翌日・年末年始
入館料 一般・大学生270円/高校生以下70円(山鹿市内の小中学生は無料)
団体(15名様以上)一般・大学生210円/高校生以下50円
駐車場 あり
チブサン古墳内部見学
令和4年4月より、土・日曜・祝日(10時と14時)各10名限定にて古墳内部の見学(有料)を再開しています。
※チブサン古墳まで自力で行ける方に限ります。博物館⇒チブサン古墳 約1km(車2分・徒歩15分)
西南戦争
西福寺古墳群 西福寺1号墳の車道沿いには西南戦争関連の碑が残っています。(岩間間道)
薩軍村田三介戦死之地
村田三介は向坂の戦いで乃木第十四連隊を撃破、その後山鹿方面へ従軍。3月12日の鍋田戦闘で、官軍の銃撃により戦死した。
碑文より
「…明治十年の西南の役には五番大隊二番小隊長となって熊本に向かい、二月二十二日の植木の戦いにては大いに奮戦して、乃木少佐の率いる政府軍を破り小倉第十四連隊の軍旗を取得した。
その後、四番大隊長桐野利秋の旗下に入って山鹿口の戦場に向かった。 山鹿口の戦いは田原坂の戦と並んで西南の役では最も激戦であったが、その主戦場は鍋田台地であった。彼はその中で最も重要な拠点を守り、しばしば奇捷を制した。然し、三月十二日の激戦で味方の先頭に立って敵陣をおそうべく、この西の低地を流るる小谷川を渡ろうとしたところ、敵兵の狙撃にあって戦死をとげた。…」
西南戦争の最大の激戦地として知られる植木町の「田原坂」も近いことから、こちらも激戦地だったのであろう。
現地案内の文章を打ち込み記載の為、誤字があるかも…
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