せいしょこさん。

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熊本県熊本市の熊本城内に鎮座する加藤神社

御祭神

加藤清正公

陪神 大木兼能公、韓人金宦公

拝殿の天井画。左右には虎も。

御由緒

加藤清正公(永禄5年(1562)6月24日〜慶長16年(1611)6月24日)は尾張国愛知郷中村(現名古屋市中村区)のご出身で、智仁勇の三徳を兼備され常に大義名分を重んじられると共に、上には忠と義を以って、下には慈悲と情を以てあたられた武将であります。また、27歳で肥後国に入国され50歳で逝去されるまでの間、日本三名城のひとつである熊本城の築城を始め、全県下にわたる土木・治水工事、干拓開墾、植林、街道づくりなどのインフラ整備、貿易振興、産業の奨励保護、学問の奨励、文化の開拓そして宗教保護政策など数々の偉業を残された領主であり、熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる有形無形の役割を果たされた大恩人であられます。清正公の50年の生涯は、実に至誠にして高潔なる人格者であり、いつの時代においても尊崇敬慕されるに相応しい政治家で、熊本の人たちは今も親しみを込めて「清正公さん(せいしょこさん)」と二重の敬称で呼んでおります。

慶応 四 年 熊本藩主細川韻邦公の弟長岡護美公の建議により明治元年
       朝廷より神祭仰出され、浄池廟を神道儀式にて守護する。
明治 四 年 神仏分離の際熊本城内に神宇を創建し錦山神社と公称する。
       同年神祗官を経て大木兼能・韓人金官公の両霊を合祀する。
明治 七 年 明治六年に熊本鎮台が置かれ、城内が悉く陸軍用地に編入
       された為に、京町台に改築遷座奉祀する。
明治 八 年 社格を県社に列せられる。(昭和二十一年社格制度が廃止)
明治 十 年 西南の役に際し、社域は恰も交戦の衝路となり手水鉢以外建
       物悉く焼失する。(ご神体は事前に健軍神社に移し奉護する)
明治 十一年  陸軍中佐乃木希典氏西南の役戦勝報賽の参拝をされ祭文を
       奏上される。(直筆の祭文は御神宝として所蔵)
明治 十七年 社殿再建に着手し、十九年に竣工正遷宮する。
明治四十二年 清正公三百年祭を斎行し、社号を加藤神社と改称する。
       同年閑院宮殿下の御参拝あり幣帛料を供進される。
       同年陸軍大将乃木希典氏より太刀一振薙刀一本献納される。
明治四十四年 伏見宮殿下の御参拝あり。
       同年米領ハワイ在留民の懇請により加藤神社を創建する。
大正 三 年 朝鮮京城府龍山有志者の懇請により加藤神社を創建する。
昭和 六 年 昭和天皇の勅使として侍従山県公爵が幣帛料を下賜される。
昭和三十七年 永年の熊本城内遷宮の宿願叶い現在地に遷宮する。

昭和四十六年 御創建百年を記念して、御鎮座百年記念大祭を斎行する。
昭和  五十年 夏祭りに神幸行列を復活する。(昭和五十七年より清正公
       まつりに改称し、昭和六十年清正公まつり奉賛会を組織する)
昭和五十一年 青少年の健全育成と教化を目的として子供会を結成する。
昭和五十二年 広大無辺なご神徳の昂揚を目的として崇敬会を結成する。
昭和五十六年 清正公生誕四二〇年。御鎮座一一〇年記念大祭を斎行する。
昭和六十三年 清正公肥後入国四百年記念大祭を斎行する。
平成 三 年 清正公生誕四三〇年。御鎮座一二〇年記念大祭を斎行する。
平成 四 年 城内遷宮三十年記念大祭を斎行する。
平成 十三年  清正公生誕四四〇年。御鎮座一三〇年記念大祭を斎行する。
       (記念事業として、社務所屋根を緑青銅板に茸替える)

宇土櫓修理中。

熊本市西区の熊本城北西にある本妙寺

長い階段を登ると…

当時、ロシアのウクライナ侵攻による犠牲者への哀悼と反戦の意を表しウクライナ国旗の色にライトアップされた。日没とともに大天守が青色、小天守が黄色に照らされ、夜空に浮かび上がった。

今思えば…

赤のライトアップは何だったか忘れた…

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