大分県中津市大貞に鎮座する薦神社(大貞八幡宮)。

全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮とも言われています。
承和年中(834~48)に初めて社殿が造られ、天仁2年(1109)に神宮寺の七堂伽藍が建立されました。本殿の裏にある三角池は池自体が神社のご神体となっています。養老3年(720)の隼人の乱の際に三角池に生い茂る「真薦」(まこも)という植物で枕が作られ宇佐八幡神の御験として神輿に乗せ祀られたことから薦枕は宇佐八幡神の御験として用いられています。
境内の三角池(古くは「御澄池」)を内宮、神殿を外宮としています。
御祭神

応神天皇(八幡大神)、比咩大神(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)
宗像三女神とは、沖津宮(沖ノ島)の田心比売命、中津宮(福岡県大島)の瑞津比売命、辺津宮(へつみや)(同県宗像市田島)の市杵島比売命。
八坂社(祇園社)/素盞嗚尊
若宮社/応神天皇皇子
御由緒

薦神社は大貞八幡宮とも称され、霊池である三角(御池)を内宮、社殿を外宮と仰ぐ八幡の古社であります。ご社殿の造営は承和年中(834~48)と伝えられていますが、歴史は遥かに遡り八幡大神顕現にかかわる上古以来の歴史を刻むものであります。
八幡の由緒を記した「八幡宇佐宮御託宣集」によれば薦神社は古来から八幡神と深いかかわりがありました。
養老4年(720)反乱を起した日向・大隅の隼人に対し、中央政府の征討軍は八幡神を奉じて鎮圧に向かいます。この時、神輿には三角池に自生する真薦で造った枕形の御験(神を表すもの)が乗せられていたのであります。
この後も薦枕は八幡神の御験として永く用いられます。薦枕は6年毎に新しく造られ、八幡神と関わりの深い八ヶ社(田笛社・鷹居社・瀬社・泉社・乙咩社・大根川社・妻垣社・小山田社)を巡った後に、宇佐宮本殿に納められます。古い御験は、外宮に、さらに外宮の古い御験は国東東海岸の奈多宮に納められ、海に流されました。
この八幡神御験の薦枕造替にかかわる一連の神事が宇佐宮の特殊神事といわれる行幸会であります。
このように真薦の自生する三角池は「託宣集」が「豊前国下毛郡野仲の勝境の林間の宝池は大菩薩御修行の昔、湧き出でしむる水なり」と記述しているように八幡神にとって切っても切れない極めて重要な霊池でありました。
往時の広大な森林は今はほとんど失われてしまいましたが、八幡神のご神徳により内宮と称えられる境内の御池は今なお千数百年来の神秘をたたえ、一隅に真薦の自生がみられます。
かつて社殿とともにあった神宮寺の七堂伽藍は大友の兵火により悉く焼亡したと伝えますが、元和2年(1616)細川忠興公が宇佐行幸会を復興した際に、薦神社の神門等を造営して崇敬して後、小笠原氏、奥平氏と領主は変わっても、薦神社に対する熱い信仰は変わらず、今日の薦神社の元が築かれたのであります。(頂いたパンフレットより)

『八幡宇佐宮御託宣集』によれば養老4年(720)三度目の反乱を起こした日向・大隅の隼人に対し中央政府の征討軍は豊前軍と共に三角池に自生している真薦で造った枕状の八幡神の御験を乗せた神輿を奉じて鎮圧に向かったとされます。薦神社の内宮である三角池には「豊前の国下毛郡野仲の勝境の林間の宝池は八幡大菩薩修行の際湧き出でし水なり」という伝承があります。宇佐宮の祢宜 大神諸男は三角池の前にて祈願をした処、池一面に波が湧きかえり雲の中から「我、昔(三角池に自生している)この薦を枕とし百王守護の誓を起こしき。百王守護とは凶賊を降伏すべきなり」とご宣託を頂きます。そしてこの真薦こそ神の依り代にふさわしいと持ち帰り体を清め自ら御験の制作にあたりました。(薦神社HPより)
薦神社の社殿
社伝によれば、承和年中(834~48)に初めて社殿が造られ、天仁2年(1109)に神宮寺の七堂伽藍が建立されましたが、源平の争乱時の元暦元年(1184)、緒方惟栄によって社殿が破壊されたといわれています。
その後長く記録が途絶えますが室町時代になると、豊前国をも領した周防・長門の守護大内氏によって、応永~永享年間(1418~31)及び天文年間(1532~55)の二度にわたって社殿の再興が行われました。ついで、慶長5年(1600)黒田氏の転封後入部した細川忠興公は宇佐宮とともに薦神社の復興にも力を注ぎ、元和年間(1615~24)に本殿・講演堂(申殿)・回廊・御炊殿・薬師堂・楼門・若宮殿・南門・鳥居などを造営しました。復興された薦神社境内の様子は、その時に描かれた『宇佐宮絵図』にうかがうことができます。細川氏の復興した楼門が現在の神門で、国の重要文化財に指定されています。
明治20年の「薦神社明細図書」には幕末以後造営された社殿の記載があり、若宮社・祇園社・呉橋・馬屋・玉垣・黒男社・井戸館などの建物がみられます。
その後二度にわたる大戦とその後の混乱の中で社殿の老朽化が進んだため、平成7年から神門(重要文化財)の解体修理、9年から拝殿・申殿などの修理を行ってまいりました。
なお、昭和51年三角池と薦神社が県の史跡に、55年には三角池の水生・湿池植物群落が県の天然記念物に指定されています。
呉橋…三角池の水路にかかる屋根(唐破風)付きの橋。古くは神門前にあったと伝える。
神門(国指定重要文化財)


裳階付き三間一戸二重門。元和8(1622)年に細川忠興が再建して以来、中津藩主小笠原氏・奥平氏も修復に力を尽くしました。平成の大修理では、建物の解体段階で、多くの墨書銘が発見され、さらに再建時の屋根はこけら葺きであったことが判明、このため桧皮葺きからこけら葺きに復元されました。
神門には三つの大きな特徴があります。第一に、二重門の前後には、庇状の裳階が付設されていることです。第二に、平面の規模に比べ立面は縦長で、側面から見ると幅が狭く、棟高を一層感じさせられます。第三に、木鼻の細部の繰型や絵様が豊かで線も伸びやかで、意匠や造りが共に優れており、工匠の技量の高さがしのばれます。
三角池



三角池本殿裏にある三角池は薦神社の池自体がご神体となっています。昔はこの池にはえている真薦という植物を枕状に編んで、宇佐神宮のご神体の御験にしていました。



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