2025年11月25日(火)18時01分頃に発生した熊本県阿蘇地方を震源とするマグニチュード5.8、深さ9kmと推定される地震。
震度5強を観測した産山村では、県道(南小国波野線)が落石の影響で全面通行止めとなり修復、復旧中のようです。(12月4日現在)産山村は山が産まれる。ということから昔から隆起と沈降などの地殻変動が多い場所ではあるのかな?
国造神社では石灯籠や石柱が倒れ、鳥居や敷地内の地面に亀裂が入るなどの被害が出ました。(参拝可。)

白の作務衣を着た方(宮司さん?)が落ち葉をブロアで吹き飛ばして掃除をされていました。



昭和48年の圃場整備工事により6号墳は破壊されてしまいましたが画文帯環状乳神獣鏡と鉄剣が出土しました。
この鏡と同型(鋳造型が同一)の鏡は和水町の江田船山古墳(前方後円墳・ 国史跡…銀象嵌銘文大刀などの出土品は国宝)、宇城市の国越古墳(前方後円墳・ 県史跡)のほか、宮崎県、福岡県、香川県の5例が知られています。

阿蘇地域の支配者層が中央の大和政権との強い結びつきを示す貴重な遺物であると考えられています。

新しい年を前向きに迎えられるよう、正月までには直したい。とのこと。
下御倉古墳

県指定史跡 下御倉古墳(昭和34年12月8日指定)
下御倉古墳は直径約30m、高さ約4.5mの円墳で、内部には複式の横穴式石室があります。北川にある上御倉古墳に比べてやや規模が小さいですが、石室全体の奥行は8.7mあります。古くから土砂が流れ込み、正確な高さは不明です。石室の奥には遺体が葬られた玄室があり、玄室の構造は、奥行2.9m、幅2.47m、高さは約2mです。正面奥壁にそって石屋形が置かれ、この部分に遺体が納められていました。石材は上御倉の場合と同じく阿蘇溶岩を用いていて、大きな石材を利用しているのが特徴です。
上御倉・下御倉古墳は古墳時代後期(6世紀頃)の特徴を示す典型的な石室構造をしており、県内にある横穴式石室を採用した古墳のなかでも比較的規模が大きいものです。
両古墳が作られた時期は県内最大規模の長目塚古墳を有する中通古墳群に後続する時代で、日本書紀にみえる「阿蘇君 あそのきみ」が「国造 くにのみやっこ」として阿蘇一帯を治めるなかで中通から手野の地へと本拠地を移したと推測されています。
古墳の眼下に広がる平野は、古くから開発が始められたところであり、古代の土地区画である「条里制」に基づいて、いち早く土地が開拓されました。上御倉・下御倉古墳に葬られた人物は、このような阿蘇谷の開拓を指揮した有力な指導者であったと想像できます。






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