博多祇園山笠 20240715

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天気予報では雨の予報でしたが、行ってきました博多祇園山笠。

今年は例年に比べて人は少なめな感じはありましたが、熱気は増しマシなようで体感温度は上昇気味でした。雨模様だったのでカッパを着て完全防備で来られている方も多かったです。

【舁き山笠】一番山笠 大黒流

表標題 真骨頂(しんこっちょう)

真骨頂とは、「真実の姿」を意味し、大黒天の柔和な笑顔は、楽しいことも苦しいことも経て、ひとつのことを極めた先に到達した心の中からの満足感を表した本当のお姿である。大黒流のひとりひとりが山笠を舁き、最後まで走り続け、真骨頂を発揮する。

【舁き山笠】二番山笠 東流

表標題 祈博多平安(いのるはかたのへいあん)

博多総鎮守櫛田神社拝殿破風に掲げられていることでも有名な「風神雷神」。暴風雨を起こさんと太鼓を叩いている雷神に対し、あっかんべーをして遁走する風神がユーモアに溢れており、その表情は博多っ子の気質を表現しているとも言われています。風と雷を司り、恵みの雨と風をもたらすといわれ、五穀豊穣の神様としても知られる存在です。博多の更なる繁栄と自然災害で被災された方々の早期の復旧復興を祈願し、無事に山笠を奉納したいと思っております。

【舁き山笠】三番山笠 中洲流

表標題 災禍払義辰馬簾(さいかはらうはぎたつのばれん)

『粋で強くて気風がよくて男の中の男』と称され幕末の江戸庶民の憧れの的であった新門辰五郎を組の頭で『十番組』頭領として約二千人の手下を抱え町火消として活躍した。晩年は徳川慶喜公に重用されその身辺警護にあたった。その名声は歌舞伎や講談等で後世まで語り継がれています。災害時に現場に赴きたゆまぬ努力をされている方々に想いを寄せながら制作致しました。

【舁き山笠】四番山笠 西流

表標題 夢遥望大海(ゆめはるかにたいかいをのぞむ)

一五八七年(天正十五年)九州征伐の途次、豊臣秀吉は博多の街のさらなる繁栄を願い、大掛かりな町割りを行いました。その際、秀吉が滞在し
た地に、豊国神社が鎮座していると伝わっております。
聖一国師による悪疫退散の祈祷行脚に起源を持つ山笠は、博多の街の安寧を願う神事であります。現在、太閤町割りと呼ばれる政を行った秀吉もまた、街の再整理によっ
て博多の繁栄と安寧を願った一人です。夢、遙かに大海を望む。
九州平定を前に、博多の地を訪れた秀吉は、古くから外つ国へと開かれたこの博多の海を望み、天下統一というみずからの夢を、その胸に熱く刻んだことでしょう。
混迷を深める現代において、博多の街だけではなく、世界の安寧と繁栄を願う。その一念から、大海を望み大いなる夢に想いを馳せる秀吉の姿に
私たちの願いを託さんと思い、今年の表題といたしました。

【舁き山笠】五番山笠 千代流

表標題 轟(とどろき)

戦国時代天文年間、鉄砲が伝来して戦術が一変した。その中でも大筒と呼ばれる大口径の鉄砲は、大坂の陣では大坂城を直接砲撃するなど勝敗を左右した。
一〇〇匁(370g)の弾を放つ重量一〇貫目(37kg)の大筒・別名国くづしは城門攻めなどに使用された。本来、台に乗せてはなたなければ支えられない大筒をさらしで巻き、腕に固定し撃ちはなつ。江戸の初めには重さ3kgの弾を120kgの大筒で抱えて放った記録もあるという。

黒田藩の若武者が、青空の下、大筒を撃ちはなった砲声がとどろき渡る。その後の残心をとる姿。古来武術では残心が最も大事と云われ、技をかけ、その後最後まで気を抜かず集中して次に備え、それにあたる。
その美しく雄々しい姿を奉納いたします。

【舁き山笠】六番山笠 恵比須流

表標題 眼光照破四天下(がんこうしてんがをしょうはす)

閻魔大王は言わずと知れた地獄の裁判官で、送られてきた死者の生前の罪を裁きます。その鋭い眼光はすべての罪を見通し、いかなるものもこの閻魔大王の目を欺くことはその世界を照らす眼光は、慈悲の光を湛えいつも私たちを見守っているのです。「眼光」とは文字通り眼の光のことですが、あらゆる真実を見通す力のことも意味します。「照破」とは、どこもかしこも照らしぬくこと。「四天下」とは、須弥山(しゅみせん)の四方にある四大州(しだいしゅう)[南贍部(なんせんぶ)州・東勝身(とうしょうしん)州 西牛貨(さいごけ)州・北倶盧(ほっくる)州]のことで、すべての世界の意味です。

【舁き山笠】七番山笠 土居流

表標題 忠勇無双漢(ちゅうゆうむそうのおとこ)

小野和泉守鎮幸(おのいずみのかみしげゆき)。立花道雪・宗茂の二代に渡り仕えた家臣で立花四天王の一人。豊臣秀吉から日本槍柱七本の筆頭と絶賛された。家老時代、収賄が常態化し守銭奴と揶揄されたが、後に財政が逼迫していた主家に、蓄えた賄賂に自らの資金を加え供出し、その窮地を救い周囲を驚嘆させた。関ケ原の戦いで立花家が西軍に与して敗れ、肥後・加藤家預かりとなった時は立花家家臣団をまとめ、宗茂が加藤家を辞した後は仕送りを続けた。当時、自ら武勇伝を語る事は無かったが立花家家臣を軽視する風潮が生じた際は、一転し酒席で戦傷を露わにし感状と照らし合わせ説明し加藤家家臣たちの毒気を抜く。併せ、「清正公の武勇伝を耳にするが、家臣たるもの主君を武勇伝となるような危険なめにあわせてはならない。少なくとも某はそうしてきた。」と家臣としての立ち居振る舞いを説いたという。忠義にして勇猛な郷土の誇る武将である。

【舁き山笠】八番山笠 上川端通

飾り山だけども、舁き山笠でいいのかな?

表標題 不惜身命真田幸村公(ふんしゃくしんみょうさなだゆきむらこう)

一六一四年の大坂冬の陣で豊臣方から参戦した真田幸村(信繁)は土づくりの出城「真田丸」を築き、敵方徳川軍勢の多くを撃退し大活躍をする。幸村は戦場での戦略に優れ武将でした。これに脅威を感じた徳川家康は寝返りを促すが、幸村はこれを拒み再び、翌年大坂夏の陣で徳川軍と相まみえ、自軍が次々と敗れるなか、幸村は五人一組の三隊に分離、正面と左右に分かれて攻撃、さらに集結して攻撃を繰り返す戦法で敵本陣の守りを手薄にして、幸村率いる真田隊は徳川家康の本陣まで攻め込み、あと一瞬の所まで家康を追い込みませ。家康が二度も自害を覚悟したと言われるほど、真田隊の勢いは凄まじかったのです。しかし家康の首を取る事は叶わず、すでに多くの兵を失った幸村は徳川軍の前に力尽きます。豊臣家は滅び、徳川家の時代が始まるのでした。
幸村が多くの人々に愛されるのは、徳川方に寝返る事も出来たのに、義を貫いて豊臣方に付き、人生の最期を散り際の桜のような美しさ、潔さが武士魂の象徴として、人々の心を離さないからです。

飾り山(見送り) ガンダム 博多迅雷伝(がんだむ はかたじんらいでん)

櫛田神社の門が午前三時に閉められたようです。

境内の様子。午前四時五九分、一番山笠舁き出し。

令和六年博多祇園山笠を締めくくる追い山笠が始まります。

雨脚が強くなってきたので、ここで帰路につきテレビの生中継で追い山笠をみました。

来年も行けるかな?

おまけ。

コロナ禍を過ぎ4年ぶりに開催された昨年(2023年)の追い山笠の動画ではありますが…

どうぞ!

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