土生(はぶ)遺跡公園に通りかかる。

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佐賀県小城市にある土生遺跡は弥生時代中期の農耕集落遺跡です。

土生遺跡は佐賀平野西部においては最大規模ではないかと言われており、初期農耕文化を知るうえで貴重な遺跡として遺跡のうち最も遺構の保存が良く遺跡の中心部と推定される場所が昭和48年に国の史跡に指定されました。


これまでの発掘調査で大陸との交流を示す「銅鉇鋳型(どうやりがんないがた)」(佐賀県重要文化財)をはじめとして、剣や矛などの鋳型も出土しており、当時の先端技術であった青銅器製作の拠点集落としても注目されています。

現在、公園の中に3棟、高床倉庫1棟が復元されており、一般に開放されています。

竪穴住居内 火災報知器も設置してありました。

高床倉庫に入りたかったのですが、倉庫内で食事されてる方がいたので画像なしです…

史跡 土生遺跡

土生遺跡は、弥生時代中期(約2000年前)を中心とする農耕集落遺跡です。

昭和46年、炭鉱鉱害による地盤沈下の復旧工事の最中に大量の土器片等が発見され、佐賀県教育委員会による緊急調査(昭和46年・47年)の結果、弥生時代の極めて重要な遺跡であることが確認されました。

そして昭和48年に「我が国の初期農耕文化の実装を知るうえで重要な遺跡である」という理由により国史跡に指定されました。

この土生遺跡は約30万平方メートルの広がりをもつ、佐賀平野西部における最大規模の集落遺跡です。

発掘調査では竪穴式住居跡、高床倉庫跡、貯蔵穴、井戸等の遺構が多数発見され木製品、石器、土器等が大量に出土しました。

特にクワ・スキ等の木製農耕具は保存状態が良く、初期農耕の内容を具体的に知ることができます。米作りの町、三日月町の基礎はすでにこのころ築かれていたと言えるでしょう。また柱等の建築部材も豊富で、当時の建物の構造を知る上で貴重な資料となっています。

さらに、出土した土器の中に数多く含まれている朝鮮系無文土器は、朝鮮半島との緊密な交流を裏付けています。このほかに、炭化米や桃・梅・瓜等の種子も出土しており、弥生時代の食生活の一端を知ることができます。

このように土生遺跡は弥生時代の初期農耕文化と朝鮮半島との交流を研究するうえで、学術的に極めて重要な遺跡です。

土生遺跡の稲作農耕

弥生時代に稲作が伝わると、それまでの狩猟採集から農耕へと人々の生活が大きく変わりました。

稲作は最初に北部九州に伝来し、半世紀ほどで本州最北端まで広がっていきました。唐津市の菜畑遺跡や福岡市の板付遺跡は縄文時代の晩期に遡る最古の農耕集落として知られています。

日本の稲作文化は朝鮮半島南部から強い影響を受けて成立したものです。このことは土生遺跡出土の木製農耕具や石器、土器、炭化米等からも知ることができ、伝来当初から非常に完成された形であったことがわかります。

弥生時代のムラとくらし

農耕の発展は社会に大きな変化をもたらしました。人々はより広い土地を平野に求めました。この結果、土生遺跡のような大集落が生まれました。

多くの働き手を抱えるムラには、人々の住まいの竪穴式住居や収穫物を貯蔵するための高床倉庫が数多く建ち並んだことでしょう。農耕と言う共同作業はムラの結束を高めました。ムラから外れて築かれる墓地の管理や、農耕に伴って生まれた季節ごとの祭りは、ムラを上げて行われました。

ムラには、これをまとめる有力者が現れました。ムラ同士の貧富の差は収穫物をめぐる争いを生み、強いムラは弱いムラを従えるようになります。そしてついに多くのムラをまとめたクニが登場します。

東アジアの中の土生遺跡

中国戦国時代の混乱の中、周辺民族の大きな動きに伴い、新しい文化の波が日本に押し寄せてきました。これは、稲作以外にも、金属器生産、木工技、機織技術等を日本にもたらしました。弥生時代の日本人はこれらの様々な文化を取り入れ、弥生文化を作り上げてゆきました。

土生遺跡も多くの外来文化を受け入れ、弥生時代中期を中心に発展した大集落ですが、出土した大量の「朝鮮系無紋土器」は、この遺跡が単に弥生時代の農耕集落であるだけでなく、朝鮮半島の人々と緊密な交流を行った人々が残した遺跡であるとことを示しています。これは東アジアの広がりの中で土生遺跡が誕生し、発展したことを如実に物語っています。

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