黒髪を靡かせて…

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佐賀県武雄市に鎮座する 鎮西霊験社 黒髪神社。

数年前に前を通って重厚な雰囲気が気になっていたお社。場所も覚えてなかったのですが偶然通りかかったので立ち寄りました。

創建

上宮 : 崇神天皇16年
下宮 : 霊亀元年(西暦715)

御祭神

伊弉冉尊、速玉男命、事解男命
(下宮相殿) : 菅原道真公、今山鎮守神

御由緒

黒髪神社は崇神天皇16年、朝廷の勅願社として黒髪山を卜して鎮座せられたと伝えられる、肥前最古の由緒を持つお社です。
頂上の天童岩には、原初の信仰形態である磐座信仰が伝えられ、また太陽穀霊崇拝にちなむ天童信仰がみられることからも、歴史的古さが窺われます。
平安末期の史料『武雄神社文書(国重要文化財)』には、当社は「朝廷ノ御祈祷所」で「杵島郡第一ノ霊社」とみえます。鎌倉期以降、天台修験と結び付いた熊野信仰が伝播してくると、神仏習合の様相が強まり、やがて「黒髪大権現」の称号で呼ばれるやうになります。末社・掛社は杵島郡・松浦郡中心に五十社に及んでゐました。
戦国期には、諸武将が誓願の起請文として用ひた「牛王宝印」守札を発行しており、上宮・中宮・下宮の三所からなる規模とともに、社格の高さを表してゐます。江戸期の祭礼日は「士民群集シテ市ヲナス」賑わいだあつたと古記にあります。
秋のご供日に奉納される流鏑馬は永万元年、大蛇退治の願成就として当社下宮に於いて奉納したのが始まりで、現在まで八百四十余年続く伝統神事となってゐます。

ちょっと調べてみると…

黒髪神社原初の神は闇淤加美神とされ、三神は後世に熊野信仰の影響で合祀されたようです。

創建は崇神天皇の時代とされていますが、黒髪山の頂きには磐座(いわくら)信仰の跡が見え、その起源はあまりにもの古さから分かっていません。

黒髪神社の黒髪の由来は?

幾つかの説があるようで…

黒髪山に鎮座する闇淤加美神故に、クラオカミ…クロカミとなったという説。

黒髪山の山神にある磐(いわくら)に鎮座した神から座神と呼ばれたという説などがあります。水神と山が結びついているのだろうか。

黒髪神社の起源は黒髪山山頂の磐座にあり、そこでは磐座に対する自然信仰があったと考えられます。後にその場所には上宮が創建されました。

遠い昔には磐座を依代として神を降臨させて祭祀を行なっていました。常に神がいるとされる神殿の建設が一般的となるにつれ祭祀自体は神社で行われるようになりました。磐座を元に建設された神社も多く存在し、境内に注連縄が飾られた霊石として残っている場合もあります。

二礼三拍手一礼?

この神社は「二礼三拍手一礼」が正式な参拝作法です。

「二礼三拍手一礼」の参拝作法については、御祭神が三柱だから…神社としての格が高いから…など、はっきりしたことはわかっていないようです。

二礼二拍手一礼という参拝が一般的ですが、本来、神社のお参りは 【三礼三拍手一礼】だったともいいますし…謎。

お参りは作法も大事とは思いますが、お願いごとだけでなく日頃の感謝などを伝えるのがいいですね♪

聖徳太子社

御祭神 聖徳太子(厩戸豊聴耳皇子命)

創建年代不詳。早くから超人的存在として説かれ、太子信仰が広く普及。職能や芸能とも結びつき、諸職種、特に建築の守護神として崇められる。中世以降、大工左官による太子講が開かれ篤く信仰される。社殿内に「寛政9年(1797年)2月、武雄山内大工中井諸職人中」による奉建の石造聖徳太子祠が安置。社殿右手に聖徳太子1300年記念碑が建つ。

聖徳太子が中国から伝わった5種類の尺の中から選んだものが今のさしがねの原型になったといわれています。(諸説あり)さしがねに日本独自の「裏目」をつけたのも聖徳太子であるとも…

勅使堂

黒髪山大蛇退治の願成就に際し、朝廷より派遣された勅使が旅装束を解いて参拝のために装束を整えるなどした。凡そ、この近辺に建てられていたとされる。

大蛇退治と勅使

二条天皇が原因不明の病気に悩まされ、陰陽師・安倍中安がその原因を占ったところ、玉藻前の仕業であり大蛇に姿を変えて肥前国の黒髪山に住み着いていたことがわかる。同時期、武雄領主後藤髙宗(後藤助明)が里人を苦しめていた大蛇を退治すべく朝廷に協力を仰いだ。このため朝廷は九州に流されていた弓の名手である鎮西八郎為朝(源為朝)と協力して対立するようにと命じた(勅命)。黒髪神社の流鏑馬は大蛇退治の願成就として奉納され、例大祭には勅使が派遣されていたと伝わっている。

玉藻前…平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされる伝説上の人物。妖狐の化身であり正体を見破られた後に下野国那須野原で殺生石になったという。

黒髪神社流鏑馬神事の由来

旧武雄領主鍋島家所蔵の「後藤記」の中に有る「大蛇退治祈願成就流鏑馬式」の項に依れば昔、黒髪山に大蛇棲み里人を悩まし、為に里人は恐れ戦き領主に大蛇退治を願い出た。領主は早速退治することとなり、先づ無事退治をされるように黒髪神社に祈願をなし、鎮西八郎為朝に依頼して大蛇を退治したが最后の止めを刺したのは盲僧であった。その願成就の為、領主は永万元年(今から八百有余年も前)乙酉二十九日黒髪神社へ社参上宮は難所とて麓の下宮にて流鏑馬を奉納したのが起源で、それ以来欠かすことなく毎年十月二十九日の例大祭(お供日)に奉納し今日に至っている。

大蛇については三つの説がある。

黒髪山は標高こそ516mと低山に分類されますが、上宮、山頂(天童岩)へ登る登山道には鎖やハシゴで通る危険な箇所もあるようです(迂回路あり)。上宮へ行くのはちょっと大変そうです…

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