鹿児島県霧島市にある鹿兒島神宮。

御祭神
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)
豊玉比売命(とよたまひめのみこと)
相殿神
帯中比子尊(タラシナカヒコノミコト)(仲哀天皇)
息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)(神功皇后)
品陀和気尊(ホムダワケノミコト)(応神天皇・八幡大神)
中比売命(ナカヒメノミコト)(応神皇后)
外摂末社 14社を奉斎する。
旧官幣大社 延喜式 式内社である。
御由緒


鹿兒島神宮の御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代とも伝えらています。御祭神彦火火出見尊 (別名山幸彦)はこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、500有余歳の長寿に亘り間農耕畜産漁猟の道を開拓し国家の基礎をつくられた。
また正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮でもあります。平安時代醍醐天皇の延喜式には大社に列し大隅國一之宮として朝野の崇敬篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(1198年)には社領2500余町歩の多きに至り、江戸末期まで千石を有していた。
明治4年國幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に列格、勅使皇族の御参拝は20余度に及び、昭和10年と49年には昭和天皇の行幸を仰いだ。
現社殿は桃園天皇の宝暦6年(1756年)島津重年公(24代)の造営になるものである。
(御朱印を頂いた際の由緒略記より)
「正八幡」
大隈国の大隅正八幡宮(鹿兒島神宮)に八幡神が最初に降り立ったあとに豊前国の宇佐八幡宮(宇佐神宮、 大分県宇佐市)へ遷ったという伝承があります。
霧島市溝辺の鹿児島空港付近一帯を、「十三塚原(じゅうさんつかばる)」といいます。十三塚原という地名は大隅正八幡宮(鹿兒島神宮)に関わるある伝説に由来します。
長承元年(1132年)、宇佐八幡宮と大隅正八幡宮とのあいだで、どっちが正統であるかという争いが起こりました。宇佐八幡宮が14人の密使を送り込み密使らが大隅正八幡宮に焼き討ちをかけると黒煙の中に「正八幡」の文字が浮かびあがりました。これを見て恐れおののいた密使たちは逃げる途中に13人が溝辺(みぞべ、霧島市溝辺町)で次々と倒れて死んでしまいました。わずかに生き延びた1人が宇佐に帰って事の次第を報告したと伝えられています。土地の人は憐れみ盛り塚をつくり埋葬し13の塚ができたことから「十三塚」と呼ばれるようになりました。現在、その跡地には「十三塚原史跡公園」があります。
十三塚史跡公園となっている場所は霧島連山を背景に向日葵や秋桜などが咲き誇り沢山の人が訪れる人気のスポットとなっています。
あと幾つか追加しようと思ったけど忘れてしまったのでこの辺で…


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