片足鳥居と山王神社

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長崎県長崎市坂本に鎮座する山王神社
小学生の頃の修学旅行ぶりに伺いました。

当時、鳥居前の道を観光バスで通りながらか停車して片足鳥居を観た時に衝撃を受けたのを覚えてはいるのですが、神社まで入ってクスノキは見ていない?と記憶しています。記憶というのは面白いもので鮮明な部分とぽっかり抜け落ちた部分があるものですね…

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山王神社の二の鳥居の吹き飛ばされた左半分

ここに横たわるのは1924(大正13)年に建立された山王神社の鳥居の吹き飛ばされた左半分です。山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居までありましたが、1945(昭和20)年8月9日の原爆投下により、爆風に対して平行に立っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとは倒壊しました。一の鳥居はほぼ原型のまま、また、二の鳥居は、爆心側の左半分が吹き飛ばされたものの、奇跡的に右半分だけ残りました。しかし戦後一の鳥居は交通事故により倒壊したため、現在も当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなりました。

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2本の被曝クスノキ
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この石の由来について(写真左下)

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この石は、平成18年(2006年)山王神社被曝楠の木の2度目の治療の時に右側の肌の空洞の中から取り出されたものです。(爆風秒速220メートル、熱2000度<推定>)その証として無数の石が右側の木の中から発見されました。この木の3メートル上にのぞき窓があり、この部分に空洞があって爆風により石が舞い上がり、小石が穴の中に入ったものと考えられます。常識では考えられないような大きな力が加わった原子爆弾の威力を物語っています。神社に向かって左側の楠は爆心地に近く主幹は途中で折れています。そのうえ、木の幹(内部)には無数の破片(瓦、金属、小石等)が突き刺さっていた為、治療の時その破片を取り除くのには困難を極めました。

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忘れてはいけない歴史の記憶…

福山雅治 – クスノキ-500年の風に吹かれて-(KUSUNOKI PROJECT ver.)
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御祭神

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[主祭神]
天照大御神、豊受比売神、大山咋神、大物主神
[左座]
伊邪那岐神、高皇産霊神、天御中主神、神皇産霊神、大年神、経津主神
[右座]
健甕槌神、御代御代皇御孫神(歴代天皇)

御由緒

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当神社は、島原の乱後、時の徳川幕府老中松平伊豆守信鋼が此の地を通過せし際、近江の国琵琶湖湖岸の坂本に風景・地名共に酷似しているとて、かの地の山王日枝の山王権現を招祭してはとの進言により、長崎奉行・代官は寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼し神社建立に着手した。当時は、神仏混合の習慣により延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」と称して運営された。以後、幾度かの盛衰がありたるも地域の氏子の方々に守られて明治維新を迎え神仏分離令により、元来の神社に戻り「山王日吉神社」と改称し浦上地方の郷社となる。又明治元年、山里地区に皇太神宮が祭られたるも台風等の被害にて損壊し、再建や以後の運営も困難となり廃社を検討されるを知り氏子は山王社との合祭を願出て許可となり、明治十七年一月遷宮し以後「県社浦上皇太神宮」と称したるも地域では「山王さん」として親しまれ、又「浦上くんち」として大いに賑わってきた。不幸にも、昭和二十年の原爆の惨禍に直面し壊滅状態となりたるも数年を得ずして苦境の中から復興の声が上がり、昭和二十四年より祭典を復活し、以後社殿境内等も次第に復活された。昭和六十三年(一九八八)神社創建より、三百五十年の記念すべき年に幣殿も再建して、ほぼ旧来の姿に近く再建し得た。原爆時の遺物としては、現在は世界的にも有名となった、参道の「石製片足鳥居」と境内入口にそびえる「楠の巨木」等が残り原爆の悲惨さと平和の有り難さ等を無言の内に語り掛けてくれる。又、楠木は戦後の数年で発芽、次第に繁茂し現在の雄姿となり地域の人々に戦後の復興の意欲と活力を与えてくれた。
(山王神社 ご案内 看板より)

山王神社は、長崎県長崎市坂本に鎮座し、村社であった山王神社(日吉神社)と県社の皇大神宮が合併(皇大神宮側に合祀)して創祀された神社です。また、浦上皇大神宮とも称され、また山王日吉神社とも称します。
第二次世界大戦の終焉を迎える直前の昭和20年8月9日午前11時02分、長崎市への原子爆弾投下によって鎮座地が爆心地から約800メートルの地点に位置していた為に被爆し、その跡を残す二の鳥居(片足鳥居)や、原爆の熱線と爆風により、死に絶える寸前となりながらも豊かな緑を取り戻した樹齢500~600年の大楠(被爆クスノキ)が、現在では当神社の象徴となり、多くの皆さまに愛されております。(山王神社HPより)

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