福岡県朝倉市に鎮座する恵蘇八幡宮。

この朝倉の地は飛鳥時代に朝鮮半島の百済を救援するため都が置かれたことがあるとか…(諸説あり)
斉明天皇は西暦661年5月に朝倉橘廣庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に着き、その年の7月に朝倉宮で崩御されました。斉明天皇の葬儀の際、朝倉宮の上から「鬼」がみていた。と記されています。
秋七月の甲午の朔に 天皇 朝倉宮に崩りましぬ。
八月の甲子の朔に 皇太子 天皇の喪を奉徙りて 還りて磐瀬宮に至る
是の夕に 朝倉宮の上に 鬼有りて 大笠を着て 喪の儀を臨み視る 衆皆嗟怪ぶ(斉明天皇7年『日本書記』)
そういえば、滋賀県蒲生郡日野町に滞在したときに近くに鬼室神社ってあったな…「鬼」って百済から亡命してきた百済王家の鬼室(きしつ)氏一族と関係あるのかな?
百済再興のために660年10月、百済王族の佐平・鬼室福信(きしつふくしん)が倭国(日本)にいた百済の王子・豊璋(ほうしょう)の帰還と援軍を要請、661年9月、豊璋に5千の兵をつけて百済に帰還させた。弟の善光は日本に留まり白村江の敗戦後難波に居住することになった。と。
怪しんだということは…もしや…少し前のこの辺りの記述も怪しい。当時の百済、朝鮮半島の大笠、笠、帽子の形状が気になる…
斉明天皇7年(西暦661年)5月9日 斉明天皇は朝倉橘広庭宮(斉明天皇が大阪から博多港を経由して朝倉で百済救済のために唐・新羅連合軍の戦に備えたところ)にお移りになり、そこにお住まいになった。このとき朝倉社(麻氐良布神社)の木を切り払って、この宮を造ったため、神〔雷神〕が怒って御殿を破壊した。また宮殿内に鬼火があらわれた。このため、大舍人や近侍の人々に病んで死ぬ者が多かった。
一服盛られたとかで…そんなわけないよな…くわばらくわばら。
御祭神

斉明天皇(第37代、第35代皇極天皇が重祚)
応神天皇(第15代)
天智天皇(第38代)(幼名は葛城皇子。皇子時代の中大兄皇子)
御由緒

郷社 恵蘇八幡宮 木の丸殿
祭神 斉明天皇(第三十五代皇極天皇第三十七代) 応神天皇(第十五代) 天智天皇(第三十七代)
由緒 斉明天皇は百済救援のため朝倉町長安寺の橘広庭宮に皇居と大本営を遷されました。中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と武運長久をご祈願のため宇佐神宮の祭神応神天皇の御霊を祀り朝倉山天降八幡と崇められました。その後天武天皇の御代白鳳元年(六七三年)斉明・天智天皇の二神霊を勅命により合わせ祭り恵蘇八幡三柱大神と称しました。昔は上座郡中三十三村の総社でしたが現在朝倉町の総社氏神です。(案内板より)


このお宮は斉明天皇七年(AD661)に建てられました。
斉明天皇は西暦661年百済救援のため、この朝倉市須川字長安寺の橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)に皇居として大本営をお遷しされました。
そして中大兄皇子(後の天智天皇)は、国家安泰と皇軍の武運長久を御祈願されるため宇佐神宮の御祭神、応神天皇の御霊をお斎りになり、朝倉山天降八幡としてお祈りされました。
その後天武天皇の御代、白鳳元年(AD673)勅命により斉明・天智天皇の二神霊とも合わせ祀り、恵蘇八幡宮三柱大神(みはしらのおおかみ)と名付けられました。昔は朝倉郡・甘木市を含む総社でしたが、現在は朝倉地域の総社氏神になっています。
社殿は
本殿 安永乙未秋九月(1772)
拝殿 文化四卯十一月(1807)の改造です。
(パンフレットより)

木の丸殿
入り口の鳥居の右手を上ると木の丸殿遺跡があります。
西暦661年5月9日、百済救済のために朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため同年7月24日、御歳68歳で崩御された。7日後の8月1日、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の御遺骸を一時朝倉山上(御陵山)に御殯葬になり、御陵山の山腹(現在の八幡宮境内)に木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の籐を掛け、苫をあき、あばらなる屋に、魂を枕にし、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服されたといわれ、この地は「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ばれるようになった。
喪に服された皇太子は「朝倉や木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」
という歌を詠まれた。また、筑後川のほとりで名月を鑑賞され、心の痛みを癒されたと伝えられている。(案内板より)

当時の御製(ぎょせい)、天智天皇のつくった詩歌
「秋の田の かり穂の庵の とまをあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ」
この朝倉の地でお歌いになり、現在百人一首に収められています。(百人一首 第一番)
天智天皇が月をご覧になったという「月見の石」が山田堰の隣にあります。
斉明帝藁葬地 (こうそうち)御殯斂地(ひんれんち)
日本書紀によれば、「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のため7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り・・・・・・」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。 陵上には方二間(1.8メートル)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝稾葬地」と刻されている。(案内板より)


斉明天皇斉明天皇藁葬(こうそう)地(御殯斂(ひんれん)地)
恵蘇八幡宮の背後の山上に斉明天皇の御陵と言い伝えている前方後円墳があります。その前方に石柵で囲まれた塔石があり「斉明帝藁葬地」と刻まれ、また石柱に「元禄8年季冬良日僧快心法印建設垣」とあり、「嘉永6年発互両日再興」と刻んであります。(快心は長安寺の宮司坊で恵蘇八幡宮に奉仕した人です。)


2023年7月の記録的な大雨で裏山が崩れ、土砂や樹木が本殿に流れ込むなど大きな被害を受けました。

日本書紀に当時のことをこう書かれています。百済の遣臣は悲しみを訴えて救援してくれるよう心を込めて願いました。そこで斉明天皇は67歳で女帝の御身にもかかわらず、我が国の将来を思い直ちに百済復興の御命令を下されました。その年の暮れ(AD660)12月4日、大和国武市郡(奈良県)飛鳥岡本宮を御出発、大阪にお着きになり、翌7年正月6日船出され3月25日筑紫の那の大津(博多)にご到着。5月9日(太陽暦6月14日)大本営たる朝倉地域の橘広庭宮にお移りになりました。ところが当時悪い病気がはびこり、長い年月の旅の疲れとご心労のため遂に7月24日(太陽暦8月27日)御歳68歳で崩御されました。その後 皇太子中大兄皇子は孝明天皇の御遺骸を一時この朝倉山上に御殯葬になり百済救援の軍を進められました。そして白村江の戦いでわが国が先陣争いをして負けた事をお知りになって、奈良県高市郡越知岡村へ後にお移しなされたとしるされています。
前方後円墳ではなく、円墳二基、双円墳という説も…
しかし、双円墳は朝鮮半島には見られるものの日本には存在しないらしい…!?
朝倉宮については麻氐良布神社(まてらふじんじゃ)、朝倉神社、恵蘇八幡宮などの諸説ありますが貝原益軒による『筑前国続風土記』にて麻氐良布神社が朝倉宮との説を示唆して以降、広く支持されています。
また麻氐良布神社の近隣には大分自動車道開発の際に発掘された7世紀中~後半にかけての遺跡、杷木の宮原遺跡、志波の桑ノ本遺跡・岡本遺跡、山田の大迫遺跡が残されていることもその説の補足となっており有力視されているようです。
漏刻(水時計)
蘇我氏を滅ぼし大化改新(645年)を断行。即位後に近江大津宮に遷した天智天皇(626−671)が中国の漏刻を模作して造ったといわれています。
(天智天皇10年(671)4月25日に漏刻を作り、大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始されました。その10年ほど前、斉明天皇の6年(660)にも中大兄皇子が漏刻を作られたとの記述があります。)
奈良県高市郡明日香村ある水落遺跡にも飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)によって築かれた漏剋(漏刻)台の遺跡があります。(斉明朝の漏刻の跡ではないかともいわれています。漏刻そのものが出土しているわけではないようです。)
奈良県高市郡で思い出したのが嘘か誠か「高市早苗 第104代総理大臣が天武天皇の子孫ではないか」という噂。天武天皇の皇子に「高市皇子」という人物がいたことからそういう話もあるようです。出雲系鴨氏が治めた奈良県の高市郡の豪族、愛媛県新居の豪族というはなしも…


恵蘇八幡宮の境内、御陵山の中腹にある漏刻(水時計)の模型。
天智10年(671年)6月10日、天智天皇は漏刻(水時計)をつくって人々に時を知らせられたと伝えられています。実物は分かっていませんが、中国で用いられていた漏刻の形式を模倣したものと考えられています。
この漏刻は、4個の桶を段違いにならべたもので、第1番目を夜天地、第2を日天地、第3を平壺、第4を万水壺といい、万水壺には矢が立てられています。
第1のつぼに水を注ぐと、水は管を通って順番に一番下のつぼである万水壺へと流れ込み、万水壺に水が溜まるにつれて、矢が浮き上がるようになり、矢に記された目盛りを読み取ることで時刻を知る仕組となっています。現在、恵蘇八幡宮では6月10日(時の記念日)を記念して、毎年同日に式典が催されています。
恵蘇八幡宮の大樟


恵蘇八幡宮の境内(道路を挟んだ向かい側)にある「水神社」は山田堰・堀川用水・三連水車を守っています。享保7年(1722)山田堰から堀川用水に水を通すため切貫水門工事を起こすことになりました。その際、水や灌漑、農耕の神である水波能売命(みずはのめのかみ)を祭祀し水門の上に水神社が建立されました。寛政10年(1798)に堀川用水を築いた古賀百工を合わせて祀っています。
2019年12月に亡くなった中村哲医師は2010年に山田堰をモデルとした取水堰をアフガニスタンに築造しました。1万6500ha(東京ドーム約3400個分(東京ドーム1個約4.6haとして計算))の荒野を農地に変えアフガニスタンの復興支援の灌漑用水モデルとして活用されています。
2021年には山田堰のすぐそばにある山田堰展望広場に中村哲医師の肖像画と言葉が刻まれた記念碑が建てられました。
それにしても、強風吹き荒ぶ滞在でした。



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