低きにあってこそ高みに至る。とか…

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熊本県阿蘇郡高森町に鎮座する草部吉見神社

社殿が鳥居より百数十段下にある「下り宮」として、宮崎の「鵜戸神宮」、群馬の「貫前神社」とともに「日本三大下り宮」とも呼ばれています。

御祭神

一の宮:日子八井命 神武天皇の皇子 草部吉見神又は国竜神とも称す。
二の宮:比咩御子命(日子八井命の妃)
三の宮:天彦命(日子八井命の第一皇子)
四の宮:天比咩命(天彦命の妃)
五の宮:阿蘇都彦命(日子八井命の甥・健磐龍命)
六の宮:阿蘇都比咩命(日子八井命の娘・阿蘇大神の妃)
七の宮:新彦命(日子八井命の第二皇子)
八の宮:彌比咩命(新彦命の妃)
九の宮:速瓶玉命(日子八井命の外孫・健磐龍命の子)
十の宮:若彦命(新彦命の甥・天彦命の子)
十一の宮:新比咩命(新彦命の娘)
十二の宮:彦御子命(速瓶玉命の子)

神社伝承

西暦千五百九年安土桃山時代正親町天皇の御代、天正年間の事ですが、豊後の大友宗麟はキリスト教を信仰し、わが国古来の神社仏閣を目にかかり次第焼き払っていました。豊後から阿蘇知保郷へ侵攻した大友宗麟は、当神社も焼き払わんと、神社の石段を下りかけたところ、見る間に満々と水が湛え神社は屋根をわずかに残し、池となりました。その水中から大蛇がカッと宗麟を睨み付けましたので、驚き慌てて馬を返し逃げ去った。」という言い伝えがあります。(神社パンフレットより)

御由緒

 御祭神は、神武天皇が大和に遷られて事代主命の娘の、比売多々良伊須気余理比売と結婚されて三皇子が御誕生、その中の長男・日子八井命をお祀りしています。因みに次男は神八井命、三男は神沼河耳命と云うことであります。

 これより先 神武天皇には日向国に住されていた頃阿比良比売との間に手研耳命、岐須耳命の二皇子を儲けられていたので、第三皇子とも云われてますけれども当神社では御長男という事になって居ります。

 日子八井命(以後命という)はある日、日向国高千穂より五ヶ瀬川を遡り上流にある鏡山に登り天神地祗を祭り、日向国の安泰と武運を祈られました。祭祀の途中、草部郷の物凄い大蛇の影が鏡に映り、郷の住民を苦しめている様がわかり住民が「命」の来征を頸を長くして待ち望んでいるのを知られました。一説には大蛇とは里を支配した悪長者の事と云う説もあります。

 神武69年8月5日、勅命により草部の郷で猛威を奮っている大蛇を征伐し民生を安堵するため能代の宮を発ち馬見原の幣立てに寄り、戦勝を祈願し一路草部を目指されました。道筋で里人の長が道案内をして、大蛇の棲む吉ノ池の傍に着かれました。

 吉ノ池は満々と暗緑色の水を湛え周囲には苔むした老木古木が生い茂り、いかにも凄まじい様相で、池からは物凄く凶悪な形相の大蛇が猛々しく火を噴きながら苔を被った頭をもたげ、外来者の命を睨みつけました。「命」は内心その凶悪な形相に驚きながらも、大蛇をハッタと睨みつけられ『おのれコノ邪悪なる奴』と大声で叱咤しながら、腰の大剣を抜くやいなや大蛇の苔の生えた頭に切り付けられました。大蛇は一太刀や二太刀を物ともせず妖気毒気を噴きながら「命」を一呑みにせんとして赤い口を張り裂けんばかりに開き「命」に迫ります。

 しかし、勇猛な「命」は少しも怯む事無く大剣を振い、渾身の力でズタズタに切り捲くられたので流石の大蛇も「コレは叶わぬ」と池より這い出て南の方によたよたと逃げましたが物の三百メートルも行かぬ内、息絶え凄まじいばかりの全身を長々と横たえました。

「命」はその死骸を焼き払い灰を近くの原に撒かれました。

故にここを「灰原」(はいばる)という様になりました。

また大蛇が、血を引きながら逃げ息絶えたところを「血引き原」(ちひきばる)と云い後世「命」の武勇を讃えました。「命」は大蛇の棲んでいた「吉ノ池」の水を東の谷に流し、池を埋め立て宮居を建てられ屋根や壁を草で葺かれた故事から地名を「草壁」と云い後「草部」に改めました。現今「くだり宮」としては通称「百段」の石段を下る当神社と日向の「うど神宮」と関東の一社のみと云われています。(草部吉見神社パンフレットより)

当社は熊本県阿蘇郡高森町宮原に鎮座し、旧社格は郷社。
 主祭神は日子八井命で、ほか健磐龍命、阿蘇都比咩命など十二神を併せまつる。
 日子八井命は、神武天皇の六十九年、東征の時、日向高千穂より草部に入られ、しばらく川走の窟(イワヤ)に住まわれたのち、今の草部吉見神社の所に あつた池を干し宮居を定められた、このとき襲ってきた大蛇を斬られ焼かれた、大蛇が血を流しながら逃げて行つた所を血引原(現地引原)、焼かれた所を灰原と言い、今もこの地名が残つている。
 創建は阿蘇神社に先立つこと六年と言われる。
 宮居を定められたその翌年、健磐龍命(神八井命の御子・阿蘇大神とも言う)が下向して来られると迎え、請われて姫を健磐龍命の妃になされた。この姫が阿蘇都比咩であり、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外 には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担われた。
 天正年間には戦国大名化した豊後の大友氏が肥後に侵攻し、社領は略奪され権大宮司家は一時祠官家を離れて村民の中に身を潜めた、寛政五年(1793)に祠官家が復興され、文化七年(1810)には祝部(ハフリ)家が再興された。

社殿は、弘治二年(1556)に甲斐左近将親成によって造営され、のち傷みが激しくなつたので明暦二年(1656)に里人らによって現在の社殿に補修された旨、明和九年(1772)の棟札に記録が残る。以後明治二十五年までに十八回修理されたと伝えられる、構造、彫刻など技巧を凝らした造りとなっている。
 社地は侵食が進んだ南外輪山の舌状台地の中央に位置し、社殿が鳥居より下にあるいわゆる下り宮と呼ばれる珍しい配置で、鵜戸神社(宮崎県日南市)貫前神社(群馬県富岡市)とともに日本三大下り宮の一つに数えられている。
 社殿下の吉ノ池(八功徳水とも言う)と呼ばれる湧水池があり、境内地には年経た杉が繁茂し、参拝する者を厳粛な気分にさせる雰囲気が漂っている。
 社殿の東方300mばかりのところに、石の玉垣で囲まれた日子八井命の御神陵(ミササキ)がある(陵墓参考地)。
 摂社として、草部吉見神社から1.5Kmばかり西の菅道(スゲノサコ)に日子八井命の御子天彦命と天彦命の妃比咩命をまつる三郎神社がある。
 例大祭は、七月三十一日と十月十七日の夏、秋の2回で、七月三十一には地引原の御仮屋まで御輿の御幸があるほか、社殿前の神楽殿で岩戸系の神楽三十三座が奉納される。十月十七日には社殿横の広場で大神御手相撲が奉納される。(境内案内より)

長命の泉

神社の下方には清らかな水が湧き出ており御祭神のご長寿にちなみ「不老長寿の長命水」と称され崇敬者の間で飲用される名水として知られています。

御神陵

神社の東約200メートルくらいの所に御祭神の御陵で高塚式の古墳があり御明様(おあき様)とも呼ばれています。

土行松古墳

日子八井命のお妃比咩御子命の陵と云われています。一説には邪馬台国の卑弥呼の墓ともいわれ、その形は前方後円墳とのことですが現在は丘陵全体に雑木が生い茂り陵域が定かでありません。

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