たぶらかす?

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福岡県みやま市瀬高町大草(旧大塚村)にある、大塚老松神社、蜘蛛塚

大塚老松神社

大宰府天満宮系の神社で菅原道真が祀られています。天満宮は全国に多く分社していますが老松神社は福岡県に多く分布しています。瀬高町の場合、南北朝時代頃は長田荘と坂田荘は大宰府安楽寺領荘園で大塚集落と上長田集落、上坂田集落に老松神社が鎮座しています。瀬高町には道真公を祭る天満神社は19社ですが老松神社は大宰府安楽寺領荘園だった3社のみです。※現在、瀬高町はみやま市と合併しているので社数に変化があるかも。

老松神社は大宰府天満宮の分社と安楽寺天満宮領内の菅原道真を祀る神社を区別し寺領側を優遇したと考察できます。神社名称の由来は菅原道真の両親が老松社に祀られているから。とか、九州の太宰府に左遷された道真公は都を想い『東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ』と邸宅(紅梅殿)の梅を懐かしむ歌を詠んだところ都から歌に詠まれた梅が飛来して(飛梅)根付き、この梅を追って来たのが追松で転じて老松といわれるようになった説、能の演目「老松」にもなっている飛梅伝説から老松神社の名称が生まれた説等あるようです。

老松神社は大塚・女山の産土神でした。

鳥居の左側に小さな祠と蜘蛛塚の説明板があります。

蜘蛛塚(大塚)

この塚は、瀬高町大草にある大塚集落の南東、老松(おいまつ)神社の入口に位置し、ここ大塚という地名の起こりでもあります。今は石室の中心部のみ残り塚上に地蔵尊を祀ってあります。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れでると言われていましたが、これは石棺内の朱が流れでていたと思われます。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいましたので、天皇はこれを征伐して首長を葬った所だとされています。
また、一説に土蜘蛛の首長田油津姫(たぶらつひめ)の墓であるとも云います。この墳(つか)の南18mの田の中に小墳があってこれも大塚といい、一緒の前方後円墳であったのが道路作りの時に、二分されたものと伝わります。 大正二年春、田の中の小墳を崩して新道が作られました。往時は女王塚と言っていましたが、後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと云います。

平成29年3月
みやま市教育委員会

田油津姫(たぶらつひめ)

田油津媛という名は、味方である九州の豪族たちをたぶらかして大和政権に従順したので付けられた名前で本名は不明。(大和政権側についたので前方後円墳)景行天皇の九州遠征に登場する「神夏磯姫(かんなつそひめ)」の末裔だといわれています。

前方後円墳の「蜘蛛塚(女王塚)」に眠る人物には神功皇后に殺された「田油津媛」説と景行天皇に殺された「葛築目」説があるようで、田油津媛が反大和政権だったとすると前方後円墳「蜘蛛塚(女王塚)」は田油津媛の墓ではなく景行天皇に帰順し大和政権の威を借りて近隣の敵対勢力(土豪)を倒した神夏磯姫の墓とも考えられます。

丙申。転至山門県。則誅土蜘蛛田油津媛。時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎来。然聞其妹被誅而逃之。(日本書紀)

3月25日。移動して山門県(ヤマトノアガタ=筑後国山門郡=柳川〜みやま市付近(旧福岡県山門郡)へ到着。そこで土蜘蛛の田油津媛を誅殺しました。そのときに田油津媛の兄・夏羽が香春神社がある本拠地・田川(福岡県田川郡香春町)で援軍を組織して迎え討ちに来ましたが、妹が誅殺されたことを聞いて逃げました。

夏羽は田川市の本拠地の館に立てこもりましたが追って来た神功皇后軍に焼き殺され、その地は夏羽焼き、後に夏焼となり、江戸時代に藩祖小笠原忠真により夏吉と改められました。(若八幡神社由緒)

山門郡の女王という記述から、邪馬台国連合の女王卑弥呼(248年死去)の100年後の子孫と見る説もあります。また、葛築目は田油津姫の先代とも別名とも。いろんな説がありますね…

『日本書紀』の景行紀に葛築目の名はありません。

土蜘蛛はヤマト王権に恭順しなかった土豪たちのことで、山の民のシャーマニズムを権力の背景とした女首長であり集団名として扱われるのではなく個人名として登場するという特徴があります。

山の民(土蜘蛛)と海の民(天皇)の争いともいえるようです。

蜘蛛塚延壽地蔵大菩薩

此の地蔵尊は祭り継がれて来たのであるが特に西暦1732年より6年間も毎年連続して起こった洪水、凶作、大飢饉、火災等の災害の折には度々土砂に身を埋め、或いは火に焚かれ、人々に変わって苦難を受けられたと伝えられて居る。台座の正面には三界萬霊、左の面に大塚村中と刻ってあり、工事の際、台座の下からお題目(南無妙法蓮華経)の書いた小石82個出土したことを見るにつけても、當時の人々が如何に深い信仰心をこの蜘蛛塚地蔵尊に寄せられていたか明らかに知ることができる。(昭和56年3月19日御堂改築記念)

塚というか、今や、土を盛った感じ…岩が石室の跡?
雨が降ると血が流れ出るようにみえるほどですから石棺内が朱(べんがら)で鮮やかに彩られていたのでしょう。防腐・防錆効果が高いので、朱(ベンガラ)を分厚く塗ったり盛ったりしていたのかも…

…ということは、北部九州にみる装飾古墳群と同じくらいの年代か?当時、意図的に古墳の編年を上げようとする動きがあったようだけど、纒向石塚古墳は出土した多くの遺物の年代観から3世紀初頭の築造とさているのでそれに合わせると…

堤古墳群

山門の堤部落にある古墳群で縦横220mにも及ぶ広さに巨石が散在しています。この居石群は「筑後のピラミッド」、「卑弥呼の墓」とも言われており平地よりも2〜3m高く周囲には濠をめぐらした跡もあり、人工的に造られたものではないかと言われています。部落の東を東塚原、西を西塚原と呼び、東塚原には三方囲いの墳2個、西塚原には5、6個があります。弥生式土器や石棺が出土していることから古墳は3世紀末から4世紀初にかけてのものと考えられています。

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